友とコーヒーと嘘と胃袋

コーヒーは無粋な泥水というのは銀河英雄伝説ヤン・ウェンリーの談だが、そこまで批判的でないにせよ私も紅茶党である。コーヒーが美味しいと聞く喫茶店に連れられて行っても頼むのは大抵、レモンもミルクも入れないアイスティーと決めている。しかし、カウンターの奥で濃縮リキッドを希釈するだけなのを見て溜め息を吐くことも少なくない。その様子を見て「そら見たことか」というような言い方をされることもしばしばある。もっとも、ケミカルな緑色のメロンソーダにアイスが浮かんでいる飲み物を舌舐めずりしながら注文をしないだけ成長していると思っていただきたいのだが、周りからはあまりそのようには解釈してもらえない。

しかしながら、自分の飲み物の好みというのがいつ頃、形成されたのかと考えてみると、これはどうにもなかなか不思議なところがある。食べ物の好みに関しては強烈で、明確な原体験を得ていることが多い。かつては苦手であった魚介類は、叔母が嫁いだ先が魚屋だったことがきっかけで美味しい品を食べる機会に恵まれて、今や好物へと変化した。最近ではトムヤムクンが気に入って以来、定期的にトムって背中から汗を掻くことをしなければ体調が悪くなる有様だ。しかしながら、飲み物に関してはひどくぼんやりとしている。アルコールが入っているものに関しては多少なりと印象が残っているが、そうではないものに関しては全くもって記憶が残っていない。

このような話を母親にしたところ、私の記憶が残っていないほど幼い頃はコーヒー党だったと聞いた。散歩に行くたびにカフェオレを強請る——宛らカフェインから産まれたのではないかと思わしき精神性が育っていたばかりではなく、泥混じりの濁った水溜りをコーヒー牛乳だと言い放ち、剰えは飲み出すというピロリ菌の植え付けを行ったことすらあったと聞かされた。時折、過激な発露があることはどうやら生来であるのは間違いないようだが、余計な迷路に迷い込んだだけであった。

そうなってくると結局の所、紅茶を好んでいるのは惰性なのかもしれない。思い返してみればかつてはコンビニの奇天烈な新商品へと果敢に挑戦していた。それらのあまりの酷さに耐えられず、いつの間にか紅茶を選んでおけば良いと思うようになっていたのやもしれない。変わった紅茶は少ないのに対して、奇怪なコーヒーは少なくない。例えば、エスプレッソソーダの酷い味はよく覚えている。

いや、だからこそ、敢えて普段は選ばない飲み物を選択することで視野が広がるのかも知れない。保留気味になっていたのは否めない。人間は日々進化をするべきだろう。故に、小さなところから変化を求めることにした。

そう思い立ち、帰り道にあった自販機にいつもより多めの小銭を入れて、取り出したペットボトルの封を切り、喉の奥へと流し込んだ。

アイスを溶かしたようなメロンソーダの味がした。

The Last of Us

歳を重ねるに連れて周りとの温度差が辛くなりつつあることに今さら気がついた。ぬるま湯に浸かっている間に周りは結婚をしたり、子どもが産まれたりという人生の転換期を迎えている知人は決して少なくない。にも関わらず、私は酷く自堕落でいい加減な日々を過ごしている。
 しかし、旅行の荷物と同じように軽ければ軽い方がいいと言わんばかりに、雑な人生を送っているし、おそらく今後もその精神性は変わらんであろう。

だが、本質的に結婚をしたいのか、遺伝子を受け継いだ子どもを腕に抱きかかえたいのかと問われると非常に解答に困る。
 いや、結婚に関してはまだ一考の余地があるかもしれない。このご時世だからこそ、一人より二人で過ごす方が精神衛生上、案外宜しいかもしれない。けれども、私の偏屈な遺伝子を受け継いだ子どもが目に入れても痛くない珠のように可愛らしい生き物として誕生するとは到底思えないのである。

といういつものように極めて不安定な精神状態にも関わらず「The Last of Us」のリマスター版をプレイしていた。
 トレイラームービーを見てやりたいなとぼんやり思っていてからおよそ六年後にプレイをするという有様。

もし私が小学生であったなら入学から卒業という長期間を経ていることから時間の流れが早くなっていることを痛感する。
 そうした加齢に伴ってというべきか、かたつむりのようにのろのろと進めていたが、エンディングまで到達して欠落している部分を補えるというのは創作物の良い所であると改めて実感した。それとはすなわちジョエルという中年男性とエリーという少女の間に芽生えた奇妙な友情であり、家族を喪ったモノ同士だけな持ち得る疑似家族の愛情があった。ジグソーパズルのピースを埋めるように欠落している部分を埋めていくような感覚と、同時に妙な懐かしさに囚われた。
 これは物語の文法がセカイ系に近しい所がそう思わせたのだろうと推測している。ポストアポカリプスの世界の旅路は弁当の揚げ物の底に敷かれたスパゲティさながらの添え物であり、中心にあるのは基本的に中年男性と少女の二人の「喪失と回復」という物語である。
 基本的なフレームワークだけに、誤魔化しが効きにくいにも関わらず、押し付けがましくない感情移入をさせ、作中の四季が変わるに連れて徐々にキャラクターへと向ける印象が変化していく繊細なストーリーを展開していたのは見事だった。
 旅の終わりを見届けた今は喪失感と充実感で余韻に浸ったままである。

 

さておき、奇しくも娘が今年の夏に産まれると言う友人に名前をつけるに当たって客観的な意見が欲しいとの連絡があった。このゲームのプレイ中にである。
 その無数の候補の中には、えりという名前もあった。コントローラーを握っている私に向かって、画面から山寺宏一の声でこの名を呼ぶ声が何度となく聴こえていたそれを勧めた。

理由として、感染者に噛まれても特殊な抗体を持ちそうだからと丁寧に添えた解答をして以降、彼からの返信は途絶えたままだ。

なんとも失礼な話である。